ちゃららのごくどう日記

土佐弁で、なまけ者とか、ぐうたらな人のことを「ごくどうもん」と言います。自由な土佐の山間から、田舎のおばちゃんが、あれこれ書いてみます。

ですます調では、語りきれない村上春樹

すべては、私の勝手な先入観のせいである。
村上春樹の作品について何かを語るなら、やっぱり、「ですます調」の文章のほうがふさわしいだろう。なんてったって、村上春樹。文学を語るなら、お上品でないといけない。
なんとなく、そんなことを思って、前回のブログは「ですます調」で書いてみた。
「ですます調」で書くと、文章はどこか柔らかく穏やかな雰囲気になる。それに対して「である調」は、断定的できっぱりとした、男性的な文章だ。
これでも私、生物学上は一応「女性」に分類されているんですよねー。だから、どこか女性的な感じのする「ですます調」で書いても、何も問題はないですよねー?
そんなふうに自己肯定をしながら文章を書き始めたのだが、これが意外と書きにくかった。

だってほら、私、ハチキンやろ?しかも、ただでさえおばちゃんやのに、無駄に酒に強いし(そこは関係ないか)、性格がオヤジ気質ながって。
しおらしいふりして何か書いても、自分の言葉じゃないみたいな気がして、性分に合わんがってね。

というわけで、文章を「である調」に戻して、前回書ききれなかったことを追加で書いてみることにした。
前回同様、興味のない方は、遠慮なくスルーしてください。

村上春樹の小説を読んでいて、いつも思うことがある。
ひとつは「官能」について。
村上春樹の小説には、官能シーンが登場する小説が非常に多い。「羊をめぐる冒険」に出てきた「耳を閉鎖」した女の子もコールガールの設定だったし、最近読んだ「騎士団長殺し」でも、別れた妻との官能描写が何度か出てくる。しかし、文章の熱量というか、高揚感がそこにはまるでなく、そそられるようなエロさがまったくないのだ。

いかんやろ。

エロスだよ、エロス!ほとばしる情熱とか、抑えきれない衝動とかに突き動かされて、100メートルを全力で走り切ったみたいな胸の高鳴りとか、呼吸の乱れとかが、普通はあるもんやろ?
それなのに、村上春樹の文章ときたら「女の子が服を脱いで寝っ転がってるから、しょうがないのでやってみた、やれやれ」ってな調子で、汗すらかいた気配がない。まるでお茶でも飲むみたいに「僕たちはセックスをした」とか書いてあって、「彼女のことが好きで好きでたまらなくて、抱いた」とは書いていない。「僕」は本当に「彼女」のことが好きなのか?と、疑いたくなるような文章なのに、概ね主人公である「僕」はいなくなった「彼女」のことを女々しくいつまでも想い、そのせいで妙な出来事に巻き込まれるのだ。
やれやれ。
エロスに満ち溢れた「官能」を描くなら、やはり、ウエットな粘りのある文章でなければならない。しかし、村上春樹の小説には、そのウエット感が、まるでない。だから、登場する女の子と出会ってすぐに関係を持ったり、誰とでも寝る女の子が物語に登場しても、いやらしさがないのだ。
クールでドライな文章で書かれた村上春樹の小説を映像化したら、とたんに官能作品の色を帯びる。そして、原作の文章の美しさが損なわれてしまうような気がして、それが私は残念でならない。

もうひとつは、小説のジャンルについて。
村上春樹の小説は、ジャンルとしては文学作品になるのだが、最近の作品を読んでいると、はたして本当に文学作品なんだろうか?とよく思う。
例えば、「1Q84」の青豆なんかは、セックスの後で相手を殺っちゃう必殺仕事人の設定だし、「騎士団長殺し」も、絵の中の騎士団長が絵から抜け出し、目の前に現れて、へんてこなしゃべり方で主人公に話しかけてくるのである。
設定だけ、あらすじだけを読んだら、まるでエンターテイメント小説だ。
親から暴力を振るわれていたり、ジェンダーの問題だったり、DVだったり、社会に影響を与える宗教団体だったり、物語の底の部分に流れているテーマは重く文学的なのに、例の、クールでドライな文章で、キッチンに行って、水をグラスに二杯飲んだり、ファンタジー小説のようなストーリーが展開するせいで、物語の深刻さが薄れて、文学作品なのにライトな感じになってしまうのだ。だから、読みやすいのに、難解と言われる作品になるのかもしれないが……。
村上春樹の小説は、間違いなく、文学作品だと思う。しかし、他の文学作品とは、明らかに違う。
なので、私は、村上春樹の書く小説は、村上春樹というジャンルの小説であると思っている。

まあ、ジャンルなんてどうでもいいことなのだが。