ちゃららのごくどう日記

土佐弁で、なまけ者とか、ぐうたらな人のことを「ごくどうもん」と言います。自由な土佐の山間から、田舎のおばちゃんが、あれこれ書いてみます。

神様のお祭り

私の住んでいる地域では、夏と秋の年二回、神祭(じんさい)という神社の祭事がある。

夏の神祭は一日だけで、神殿に祀りものをお供えし、神官さんが祝詞をあげ、氏子がお参りをしたあと宴会をするだけのシンプルなものだが、秋の神祭は、宵宮、本大祭、地主祭りと、三日をかけ、地区民総出で祭事を行う。宵宮では、神官さん(高知では、神官さんのことを太夫さんと呼びます)が神社で祝詞をあげ、翌日の本祭では、世話役が裃の衣装を着て、祭り道具を担いだ氏子が太鼓を打ち鳴らしながら、おなばれ(祭り行列のようなもの)をするという古式ゆかしいお祭りで、しかも、三日通して氏子が宴会をする、伝統の継承と呼ぶにふさわしい行事なのだが、お酒が弱いうちの主人は、さすがに堪えたのか、ついさっき「のうがわるい(土佐弁で、具合が悪いとか、気分が悪いという意味)」と言いながら、麦茶を飲んでいた。

つまり、今年も無事に、秋の神祭を執り行うことができたということで。

よかったよかった。

 

さて。

都会で暮らす方々は、神社の夏祭り、秋祭りと言うと、露店が並ぶ賑やかなお祭りを想像されるかもしれない。しかし、高知の田舎のお祭りは、押し寄せる過疎と高齢化の波にのまれて、昔のような賑わいは、残念ながら、なくなってしまった。

と、言っても、そもそも、田舎のお祭りは、都会のお祭りとは、まったく違っているので、詳細を書いても、理解できないかもしれない。しかも、酔っぱらって書いているので、わからない所は、後から質問してください。すみません。

 

そう。私が子供だった頃、神祭というと、各家々でご馳走を用意して、親類や友人知人、果てはその友人まで案内して、宴会をするという楽しい行事だった。

神祭の日に、神社に露店が並ぶことはなかったが、氏子の家はみんな宴会の用意をして、親類縁者を招いたのである。

氏子の家みんなだから、隣の家も、その隣の家も、そのまた隣の家も、神祭の日に宴会をするのだ。地区総出で、各々宴会。これが、楽しくないわけがない。

中学生だった頃、神祭の前の日には「明日はうちの神祭なので、来てください(つまり、夜の宴会に案内)」と、学校の先生にまで案内していた。もちろん、うちの地区で先生を案内するのは私の家だけではないから、案内された先生たちは、ハンドルキーパーを用意して、家庭訪問でもないのに生徒の自宅を次々訪問し、酔っぱらって懇親していくのだから、翌日の学校では「昨日、〇〇先生が酔うてねー」と、話題がつきなかった。

もちろん、案内する客人は、学校の先生だけではない。

父親の友人や、仕事先の関係者などさまざまで、案内した本人も、誰に案内したのかよく覚えてないなんてこともあったと思う。

隣のお客さんが、酔っぱらって家を間違えて来ることもあったし、お客さんが、酔った勢いで誘った人を連れてきたりしていて「あの人、誰?」なんてこともよくあった。

酔っぱらって、他人の靴を間違えて履いて帰る人が常にいて、そういうお客さん用に安物のサンダルを用意していたり、お客さんたちが帰った後で、廊下で泥酔して寝ている人毛布を掛けながら、「この人、誰?」と、母が呟いていたこともあった。

そして数日後、うちの神祭に来てくれたお客さんたちから、「明日はうちの神祭やき、来てよ」と、案内されて、父親はいそいそと出かけて行った。

 

神祭では、友達の友達は、みんな友達みたいな、お酒飲みの輪が広がって、色んな人と交流していたのだろう。手ぶらで行ってご馳走になるかわりに、うちの神祭にも、手ぶらで来てよってのが、暗黙の了解だった。

私が子供の頃は、今ほど仕出し屋もなく、どの家庭でも、自宅で皿鉢料理や自慢のご馳走を用意して、夜遅くまで訪れる客人をもてなしていたから、神祭は一大イベントで、母は大変だったらしい。

しかし……。

そんな神祭の宴会も、私が二十を過ぎた頃から徐々になくなってしまった。なくなった理由は、一言では説明できないが、たぶん、過疎と高齢化に伴い、宴会を主催する側がしんどくなってきたのが、一番の理由だろう。

 

今でも宴会しているのは、うちの地域くらいかもしれない。

 

高知で宴会のことを「おきゃく」と言うのは、この、客人をもてなすのが宴会と言うところからきているのかもしれないと思いつつ、今夜も酔っ払い……。