ちゃららのごくどう日記

土佐弁で、なまけ者とか、ぐうたらな人のことを「ごくどうもん」と言います。自由な土佐の山間から、田舎のおばちゃんが、あれこれ書いてみます。

藤沢周先生の本は、女性言葉で私を呼ぶ。その2

さて。前回の続きである。

呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーンの、アクビちゃんのような可愛らしい声で「私を買って、私を読んで」と呼びかけてきた件の小説は、三篇からなる短編集で、表題作の「ソロ」は一番最初に収められていた。
70ページ弱の短編で、読み始めてすぐに、リズムの良い文章にするすると絡めとられ、私は、瞬く間にその作品世界に引きずり込まれた。途中で止めることすらできない。一気に読みすすみ、あまりの衝撃に、声をあげそうになった。

なっ、なんじゃこりゃーっ!
こんな小説、書いたらいかんやろーっ!

そう叫びたくなるくらいに、本を持つ手が震えてくる。

なぜなら、この「ソロ」という小説、狂っているのだ。

鼻ピアスの主人公が、見ず知らずの女の運転免許証を拾い、その女を訪ねて殺害し、女の部屋を物色し、バスルームで用を足しているところから物語は始まる。
間違いなく頭のイカれた主人公は、信じられない行動をとるのだが、狂っていると感じたのは、主人公のことではない。

文章が、たまらなく、美しい。

イカれた主人公の狂気につられて、文章までもが昂る……といった感じがまるでない。冷静で、静謐。独特の比喩に、繊細な描写。作品世界は冴え、その冷酷なまでの美しさに、私は、ゾッとした。

この作者が、イカれている。

正直、そう思った。
こんな小説を世にだしていいのか?
そんなことすら思った。
しかし、一方で、言いようのないモヤモヤした感情が、胸の内から湧いてくるのも事実だ。
納得ができない。何に納得ができないのかもわからないが、とにかく、納得ができない。
私はもう一度、「ソロ」を冒頭から読み返した。そして気づいたのである。その作品に、自分が惹かれていることを。

翌日、私は図書館に行き、藤沢先生の作品を借りられるだけ借りて、貪るように読みあさった。どの作品も出口などなく、窒息しそうな世界観に、目眩すらおぼえる。中毒患者のように虚ろになった頭で、私は思ったのである。

そうか。私も、イカれているのか……。


以来、私は藤沢先生の小説に溺れている。本を開き、美しい文章の束を自らの首に巻き付け、白目を剥き、喘ぎながら、恍惚という言葉の意味を噛み締めるのだ。

なあ、藤沢先生、こういうのも、ありだろう?