ちゃららのごくどう日記

土佐弁で、なまけ者とか、ぐうたらな人のことを「ごくどうもん」と言います。自由な土佐の山間から、田舎のおばちゃんが、あれこれ書いてみます。

ですます調では、語りきれない村上春樹

すべては、私の勝手な先入観のせいである。
村上春樹の作品について何かを語るなら、やっぱり、「ですます調」の文章のほうがふさわしいだろう。なんてったって、村上春樹。文学を語るなら、お上品でないといけない。
なんとなく、そんなことを思って、前回のブログは「ですます調」で書いてみた。
「ですます調」で書くと、文章はどこか柔らかく穏やかな雰囲気になる。それに対して「である調」は、断定的できっぱりとした、男性的な文章だ。
これでも私、生物学上は一応「女性」に分類されているんですよねー。だから、どこか女性的な感じのする「ですます調」で書いても、何も問題はないですよねー?
そんなふうに自己肯定をしながら文章を書き始めたのだが、これが意外と書きにくかった。

だってほら、私、ハチキンやろ?しかも、ただでさえおばちゃんやのに、無駄に酒に強いし(そこは関係ないか)、性格がオヤジ気質ながって。
しおらしいふりして何か書いても、自分の言葉じゃないみたいな気がして、性分に合わんがってね。

というわけで、文章を「である調」に戻して、前回書ききれなかったことを追加で書いてみることにした。
前回同様、興味のない方は、遠慮なくスルーしてください。

村上春樹の小説を読んでいて、いつも思うことがある。
ひとつは「官能」について。
村上春樹の小説には、官能シーンが登場する小説が非常に多い。「羊をめぐる冒険」に出てきた「耳を閉鎖」した女の子もコールガールの設定だったし、最近読んだ「騎士団長殺し」でも、別れた妻との官能描写が何度か出てくる。しかし、文章の熱量というか、高揚感がそこにはまるでなく、そそられるようなエロさがまったくないのだ。

いかんやろ。

エロスだよ、エロス!ほとばしる情熱とか、抑えきれない衝動とかに突き動かされて、100メートルを全力で走り切ったみたいな胸の高鳴りとか、呼吸の乱れとかが、普通はあるもんやろ?
それなのに、村上春樹の文章ときたら「女の子が服を脱いで寝っ転がってるから、しょうがないのでやってみた、やれやれ」ってな調子で、汗すらかいた気配がない。まるでお茶でも飲むみたいに「僕たちはセックスをした」とか書いてあって、「彼女のことが好きで好きでたまらなくて、抱いた」とは書いていない。「僕」は本当に「彼女」のことが好きなのか?と、疑いたくなるような文章なのに、概ね主人公である「僕」はいなくなった「彼女」のことを女々しくいつまでも想い、そのせいで妙な出来事に巻き込まれるのだ。
やれやれ。
エロスに満ち溢れた「官能」を描くなら、やはり、ウエットな粘りのある文章でなければならない。しかし、村上春樹の小説には、そのウエット感が、まるでない。だから、登場する女の子と出会ってすぐに関係を持ったり、誰とでも寝る女の子が物語に登場しても、いやらしさがないのだ。
クールでドライな文章で書かれた村上春樹の小説を映像化したら、とたんに官能作品の色を帯びる。そして、原作の文章の美しさが損なわれてしまうような気がして、それが私は残念でならない。

もうひとつは、小説のジャンルについて。
村上春樹の小説は、ジャンルとしては文学作品になるのだが、最近の作品を読んでいると、はたして本当に文学作品なんだろうか?とよく思う。
例えば、「1Q84」の青豆なんかは、セックスの後で相手を殺っちゃう必殺仕事人の設定だし、「騎士団長殺し」も、絵の中の騎士団長が絵から抜け出し、目の前に現れて、へんてこなしゃべり方で主人公に話しかけてくるのである。
設定だけ、あらすじだけを読んだら、まるでエンターテイメント小説だ。
親から暴力を振るわれていたり、ジェンダーの問題だったり、DVだったり、社会に影響を与える宗教団体だったり、物語の底の部分に流れているテーマは重く文学的なのに、例の、クールでドライな文章で、キッチンに行って、水をグラスに二杯飲んだり、ファンタジー小説のようなストーリーが展開するせいで、物語の深刻さが薄れて、文学作品なのにライトな感じになってしまうのだ。だから、読みやすいのに、難解と言われる作品になるのかもしれないが……。
村上春樹の小説は、間違いなく、文学作品だと思う。しかし、他の文学作品とは、明らかに違う。
なので、私は、村上春樹の書く小説は、村上春樹というジャンルの小説であると思っている。

まあ、ジャンルなんてどうでもいいことなのだが。

村上春樹の「羊をめぐる冒険」について書きました

先月末のことです。Twitterのお友達である胡桃ちゃんに、村上春樹の「羊をめぐる冒険」という作品を薦められて、さっそく読んでみました。
というわけで、今回は村上春樹について書いています。興味のない方は、スルーしてくださってかまいません(笑)。

実は私、お恥ずかしい話ですが、これまで村上春樹の「ノルウェーの森」より以前に出版された小説をほとんど読んでおりませんでした。読んだのは、デビュー作の「風の歌を聴け」だけで、しかも、読んだのもずいぶん前で ( 確か、海辺のカフカが刊行された頃だったと思う )、読んだ当時は「全共闘とか、学生運動になじめなかった、クールな大学生の青春小説」といった印象だったかなぁ。空から魚が降ってきたり、井戸に下りて不思議な夢を見ることのいない村上春樹が、ちょっと新鮮!などと思った記憶があります。

つまり、その程度のファンなんですよ、私は。

あっ、断っておきますが、村上春樹が嫌いなわけではありません!
なんてったって、新刊が発売されれば必ずニュースになるほどの人気作家だし、そのうちノーベル賞作家と呼ばれる日だって来るかもしれない。知識としても、読んでおかねばならない作家の一人であると思っているし「ねじまき鳥クロニクル」を読み終えたときの、あの何とも言えないモヤモヤをちゃんと自分なりに消化して、いつか文章にしたい……などと、思ったりはしているんです。

ただね、さっきも言いましたが、ハルキストと公言するほどの大ファンではないんです。

正直言って、今の自分が、村上春樹の作品世界を、ちゃんと理解できているという自信はありません。
現に、村上春樹作品を読むたび、現実的ではない作品世界 ( あっ、ここは重要です! 村上春樹的な、強調の点々付けてね。あくまで、「現実的ではない作品」であって、「非現実的作品」ではないのです ) に、「どうしてこんなストーリーになるのか?」という疑問を抱き、主人公の生い立ちや戦争に関する描き方など、共感できる部分があるのに、結末まで読んで「えっ?こんな終わり?」と納得できなかったりして、感想を求められたら、あらすじをまとめることもできないまま「登場する女の子たちが、節操がない!」とか言い出しかねない気がします。

つまり、その程度の、薄っぺらい読者なんです。

私の知り合いに「村上春樹の井戸は、単なる井戸ではない!あれは、人間の根底に渦巻く無意識という嫉妬や悪意のメタファーで……云々」なんて言う、ハルキストを公言して憚らない人が一人いるんですが、その人から「あんたは、村上春樹の小説の表面しか読んでない!」などと言われたこともあります。
「そんなこと言われても、ねぇ……」
確かに、反論できるほど村上春樹を読んでないし……。心理学とか持ち出されたら、解るわけがないやろ!
だいたい、読書の仕方は、人それぞれでしょ?感想だって、人それぞれでしょ?
本を読むのって、そんなに難しいことですかね?
ただ、「なんか、よーわからんけど、面白かった」でもいいんじゃないの?

と、常日頃思っているので、ハルキストではない私が、「羊をめぐる冒険」の感想を、私なりの視点で書かせてもらいます。
ハルキストのみなさん、拙い感想ですみません。温かい目で見逃してくださいねー。


さて。
今回「羊をめぐる冒険」を、まったくの予備知識なく読み始めた私は、作中に「鼠」と「ジェイ」が登場してきたあたりで「あれ?」と思いました。
これ、もしかして「風の歌を聴け」の続編ちゃう?なんか、作品の世界観も似ている感じがする……。
そう思って、ネットで調べたら(今は本当に便利ですね。知らないことをすぐに調べることができる)、なんと、鼠三部作とかいう記事がヒットするではありませんか。いやー、自分の無知っぷりを、改めて実感しました。世の中には、自分の知らないことが、まだまだ溢れているんですね。知るきっかけを与えてくれた胡桃ちゃんとカナコちゃんに感謝して、作品を読み進めました。

羊をめぐる冒険」。最近の村上作品と比べると、文章に遊びがあると言うんでしょうか。主人公の置かれている状況や境遇などが、無駄なくらいに文学的な表現で描かれていて、物語の冒頭にも、伏線か?と思わせるような場面が収まっているんです。でも、これが、ストーリーの本筋には全く関係ない。「ページ数稼ぐために苦肉の策で書いたんかな?」と、一瞬思ってしまうような章立てなのですが、「もしかしてこれ、不自然にページ数を割いてでも、当時の生身の村上春樹が伝えたかったことだったのかしら」などと思いを馳せてしまいます。
物語の背景は、高度成長期と呼ばれた時代の終わりごろ。その当時のテレビドラマや映画では、男も女も、タバコをプカプカふかしていて、巷には長髪(今風のロン毛とは違う)のお兄ちゃんが溢れ、ヒッピーという言葉が流行り、性の乱れも社会問題になっていた頃です。本筋には関係ないところで私は、自殺してしまう女の子に、心を乱されました。
そして、読み進むうちに、「耳を閉鎖」している女の子が登場して、「奇妙な男」から、わけのわからん状態に巻き込まれ、ようやく村上春樹らしいストーリーが展開してくるのです。
あとは、ネタバレになるので、興味のある方には、ぜひ、読んでいただきたい、と思うところなのですが、結末は、ちょっと衝撃的でしたね。ブルジョワに反発して旅に出た「鼠」だったからこそ、権力に屈しないというこの結末か?とか、主人公の「僕」の凡庸は、中立的判断ができるという意味なのか?とか、色々考えてしまいました。

ただ、読んだ後に、「鼠」の彼女?とか、「僕」の出て行った妻のこととか、何だか消化不良のような感じがしたので、「1973年のピンボール」を続けて読みました。
さすがに「鼠」三部作と言われているだけあります。ちゃんと理解するには、全部読んだほうがいいと思います。


って、ハルキストではない私が言う事ではなかったですね。
こりゃまた失礼いたしました。

胡桃ちゃん、この本を教えてくれてありがとう。
カナコちゃん、この本から読んでと薦めてくれてありがとう。

毎日新聞農業記録賞

去年の八月初旬のことである。
友人から誘われたバーベキューの飲み会で、高校教員をしているH先生にお目にかかった。
H先生は、息子が高校の時にお世話になった、アンジェラ・アキ似の美人先生で、明るく気さくな方である。友人のMさんと何やら話をしていたので、
「こんにちは。ご無沙汰しております」
と挨拶をしたところ、
「あー、そうや、ウエタさん(私の名前)、応募してみん?」
Mさんが私に話を振ってきた。
「えっ?何の話?」
「ウエタさん、毎日新聞の、毎日農業記録賞って、知っちゅう?」
「いや、知らん……」
そう。この時まで私は、毎日農業記録賞というものを、まったく知らなかったのである。

話を聞くと、毎日農業記録賞というのは、「農」や「食」、「農に関わる環境」への関心を高めるとともに、それに携わる人たち、これから携わろうとする人たちを応援する賞で、「農」「食」「農に関わる環境」に対する思いや体験、提言などをつづり、原稿用紙十枚程度にまとめて応募するという、どうやら、作文コンクールのようなものらしかった。
一般の部と、高校生の部があり、H先生は、高校生の部に応募する生徒の作文を添削指導しているらしく、
「締め切りが九月の頭やき、今月末までには仕上がるようにと思うたら、なかなかこれが大変ながですよ……」
と、少々苦笑い。
「でも、ウエタさん、応募してみませんか?何なら、添削指導もしますよ。一般の部は応募数も少ないし、それに、最優秀賞は賞金が30万円やし」
そう、H先生が言い、
「えっ?30万ですか!」
金額を聞いて、一瞬、心が動いた。しかし、締め切りまで一ケ月を切っている。たったひと月足らずで原稿用紙十枚ほどの文章をまとめるのは、ちと面倒くさい……かな?
「あー、考えてみます」
結局私は曖昧に答えて、その日は帰宅したのだった。

そして、その二日後、事態は急変するのである。

なんと私は、自分の不注意から接触事故を起こし、車を廃車にするという失敗をおかしてしまった。
信号のない交差点で、軽自動車同士の出合い頭の接触事故。不幸中の幸いは、双方、軽い打ち身程度で大した怪我はなく、過失割合もほぼ五分五分だったので、事故後の処理はそれほど揉めることもなかったのだが、主人からは、
「ったく!金もないに、新しい車を買わんといかんやろが!」
と、めちゃめちゃ怒られ、私は、塩をかけられたナメクジ状態。
反省しています。ごめんなさい……とは思うが、余計な出費は避けられない。弱ったなぁ、どうしよう、と思っている時、ふと私の脳裏に、H先生の言った「賞金30万円」という言葉が、一筋の光明のように浮かんできたのだ。
嗚呼!そうだ。この手があった!
もちろん、賞金30万円が貰えると楽観視した訳ではない。貰えたらいいなとは思ったが、たったひと月足らずで書いたものが30万円に化けるほどの文章力が、自分にないことは解かっている。
しかし、この、毎日農業記録賞、賞金がびっくりするほどの大盤振る舞いなのだ。
まず、一般の部。最優秀賞が6編。賞金、各、30万円。
優秀賞が10編。賞金、各、10万円。
奨励賞が1編。賞金5万円。
優良賞が、前年度は34編。賞金、各、1万円。
続いて高校生の部。優秀賞が10編。各奨学金10万円(高校生なので、ここは奨学金)。
奨励賞が2編。奨学金、各、5万円。
優良賞が40編。1万円分図書カード。
ざっと計算したしただけで、総額500万円弱。
こんだけ大盤振る舞いなら、優良賞の一万円ぐらいは、いけるかもしれない。
淡い期待を胸に抱き、その日から数日、晩酌をちょっとだけ控えて、私はパソコンに向かったのであった。

つまり、応募動機は、間違いなく賞金目当て。
不純な動機はしれっと隠して、書き上げた作文を、毎日新聞高知支局に送ったのは、ここだけの秘密である。

ただ、誤解しないで欲しい。きっかけというか、動機は確かに不純だったかもしれないが、作文に書いたことは、嘘ではない。日頃から、自分が農業に対して、あるいは食に対して思っていたことを自分なりの文章でつづったものであり、仕事の合間に、ひと月足らずで書いたにしては、上手く書けたし、自分で自分を褒めてあげたいと、思っている。

さて。それから数日が経ち、日々の仕事に忙殺され、毎日農業記録賞に応募したことなどすっかり忘れていた11月の中旬のことだった。一本の電話が、掛かってきたのである。
電話で、
「こんばんは。毎日新聞高知支局の〇〇と申します。ウエタさんですか?おめでとうございます。優秀賞を受賞されました。賞金10万円です!」
といった内容の連絡を、もうちょっと上品な言い方で説明されたと思うのだが、舞い上がってしまったのと、酔っぱらっていたのとで、細部まで、はっきりとは覚えていない。しかし、
「ありがとうございます、ありがとうございます」
と繰り返したのは、今でもはっきりと覚えている。

賞金が口座に振り込まれた翌日、主人と二人で、近所のイタリアンレストランで食事をした。さらに、年末に、いつもよりちょっと高いお肉と、ちょっと高いワインを買って家族で団欒し、さらに年明けに、いつもの倍はするお肉を買って、すき焼きをして新年を祝い、賞金は、あっという間に、ぱぁーっと使ってなくなった。
これは、高知県民的、正しい臨時収入の使い方だと、私は思っている。

それもこれも、毎日新聞社様のおかげでございます。
毎日新聞社様。大変、美味しゅうございました。ありがとうございます。








灯台は、意外と下暗し

パソコンが、壊れた話の続きである。

話はちょっと本題からそれる。私は高知県東部の辺鄙なところで暮らしているのだが、辺鄙なところだから自然はいっぱいで、水も空気も、採れる作物もとっても美味しい。しかし、それと引き換えに、辺鄙な場所であるがゆえの不便さもそれなりにあって、東宝シネマズ高知とイオンがある高知市内までは車で片道一時間半かかるしし、一番近いユニクロまでは片道一時間。ヤマダ電機ケーズデンキまでは半時間かかるような、車がないと生活できない所で毎日暮らしている。
つまり、色んなお店のある市街地まで、物理的に遠いのだ。

そんなだから、当然、ネットで検索した最寄りのパソコン修理業者も、最寄りとは呼べないくらい遠くにあった。車で片道一時間半もかかる場所にある業者が一番近いなんて、近いという言葉の定義は何だろう?と、思わずにはいられない。パソコンを修理に出すのに、往復三時間。朝九時に出て、お昼の休憩を間に挟めば、中途半端に一日がつぶれてしまう。まっ、長い人生、そんな日もたまにはあるだろう。
そんなわけで、火曜日の夜、私は主人に「明日は仕事一日休んで、パソコン修理に持って行ってくるきね」と、仕事さぼって、ついでにウロウロ買い物もしてくる宣言をしていたのだった。
大事なデータを復旧してもらえるなら、御の字だ。遠いだのとワガママの言える立場ではない。先代のパソコンが壊れた時には、NTTさんがメーカーに送ってくれたなぁ……。修理が完了するまでに一週間以上かかったよなぁ……。てか、明日はお昼、どこで食べよっかな……。ブックオフとearthにも寄っちゃおう♡
ぼんやりと酔っぱらった頭で、そんなことを思っていた時だった。息子が
「そんな遠いとこまで行かんでも、〇〇町に修理しゆうとこあるのに」
と、ぬかすのである。
「えっ?」
〇〇町までは、家から車で片道15分……もかからない。
「そんなとこに修理店あった?」
「うん。あるで。〇〇の信号のところを右に曲がって……」

息子の話によると、そのお店は、大手パソコン機器メーカーで勤務していた人が、都会に疲れて会社を退職し、実家のある〇〇町にUターンしてきて始めたお店とかで、仕事は迅速丁寧かつ良心的だという話だった。
「へぇー。知らんかった。ネットの検索にも引っかからんかったけど……」
「そりゃ、店のおじさんが宣伝してないきやろ。でも、腕はいいって聞いたで。ほんとかどうかは知らんけど」
「ふーん」
さて。どうしたものか。明日、買い物したかったがやけどなぁ……。さぼりたがりの私は一瞬思案したのだが、そんな私の心の底を見抜いた主人がにっこり微笑んで、言った。
「〇〇町やったら、あんた、明日は半日仕事できるやろ」

……ちっ!

さて。翌日(つまり、昨日)。午後からそのお店にパソコンを持って行った。
迎えてくれたのは、眼鏡をかけ、赤いチェックの洒落たシャツを着た、小柄で痩せた、ちょっと神経質そうなおじさん(見た目年齢は私より少しだけ上)だった。
パソコンの状態と、復旧したいデータの名前と私の連絡先等を伝えると、
「うわー、このパソコン、ねじ穴とか全然見あたらないんだけど。これは、困ったな。どうやって分解しよう?ちょっと大変だな」
と、神経質そうに思えたその顔を、くしゃっとした笑顔に変えて、なんだか嬉しそうにしている。
山が高ければ高いほど燃え上がる登山家のようだなぁと思いつつ、パソコンを預けて帰って来た。

そして、本日。
息子が言った「迅速丁寧かつ良心的」は、嘘でも、噂でもなかった。今日の午後「作業終りました」と連絡があり、なんと、パソコンが無事、我が家に帰って来たのである。
たった、二日で、修理が完了するなんて、凄くない?
もちろん、会計ソフトのデータも無事!ドキュメントに保存していた文書や画像も、ダウンロードしていた楽曲も無事!修理代も二万円ちょっと。もうね、感謝しかないでしょ。
帰り際、店主のおじさんが、
「このパソコン、中のハードディスクが素晴らしいことに日立製やったき、壊れてなくって……」
と、熱弁をふるってくれたのだが、機械オンチの私には、日立製のハードディスクがどう素晴らしいのかはさっぱりわからなかった。しかし、店主のおじさんの笑顔は本当に素敵で、パソコンよりも、もっと大事なものを直してもらったような気がしている。

そんなこんなで、帰宅後、息子が買ったまま使っていないUSBメモリーを勝手に取り上げて、復旧した会計ソフトを早速ダウンロードしたのは、ここだけの秘密で、私は今、パソコンでこのブログを書いている。
あー、皆様に感謝。

沈黙のパソコン

一週間ほど前のことである。ブロック塀から飛び降りるほどの覚悟で「ブログを始めよう!」とか思いたち、はてなブログに登録をした翌日に、なぜか知らんが、パソコンが壊れてしまった。

データの復元とか、色々やってみたが、ディスプレイは、青い背景に「自動修復しています」と「再起動してください」と「修復できませんでした」をローテーションで映し出すばかりで、起動する気配は一向にない。

まあ、買ってから10年ほど経っちゅうしね。壊れるがはしかたがないか。パソコンの方は寿命やと思って、諦めよう……。

などと、悠長なことを言うとる場合ではないのだった。
なぜなら、USBやロムに落としていないデータが、まだ中に残っているのだ。
自営業なので、会計ソフトを使って、パソコンで帳簿管理をしているのだが、あれが、パーになって、一からやり直しなんてとんでもない。勘弁してくれ!(バックアップを外部に保存してない私がいかんがやけどさぁ……、わかっちゅうけども……)

しかし、私も主人も、パソコンの配線とかセットアップとかが苦手で、今まではパソコンをNTTさんに修理とか、セットアップとかしに来てもらっていた。残念なことに、NTTさんのそのサービスは、数年前からやっていない。

どうしよう……。

しょうがない。ここは、ひとつ、出張修理の業者を探すか。早速、パソコン出張修理の業者をタブレットで検索したところ、あるじゃん、あるじゃん。全国どこでも即日出張修理しますと書いてある。対象エリアを確認したら、私の住んでるとこも、出張修理の対象地域。
受付は、朝九時から。翌朝、九時を待って、その業者の番号(フリーダイヤル)に電話を掛けたのである。

電話は、わりとすんなり繋がった。若そうな感じのお姉さんの声に導かれるまま、住所氏名、電話番号にバソコンの情態と種類を告げ、出張修理を希望する旨を伝えると、
「大変申し訳ありません。お客様のお住まいの地域は、郵送にて対応させていただくことになっておりまして……」
とか、言うではないか!
「はぁ?!」
はぁ?! ゆ、郵送だとぉ?
だって、ネットの広告には、出張修理しますって書いちゅうやん。ちょっと、話が違うやろ!
文句言うてやろうと思うが、なんて言うたらいいのか、言葉が浮かんでこない。
絶句していると、電話の向こうのお姉さんが、
「本日、こちらから、郵送に関するご案内の資料をお送りいたしますので、資料が到着いたしましたら、改めてお申し込み手続きをお願いします」
と、続けてきたので、再び絶句。
「では、本日のお電話は、わたくし○○が承りました。ありがとうございました」
「……はい。失礼します」


しかし……。
電話を掛けてから、今日で五日ほど経つのだが、資料は未だ届いてない。
どーなっちゅうがな!ジャロにいいつけちゃる!

そんなわけで、今日もスマホからポチポチ(書きにくい 泣き)。

パソコンは、沈黙したままである。

藤沢周先生の本は、女性言葉で私を呼ぶ。その2

さて。前回の続きである。

呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーンの、アクビちゃんのような可愛らしい声で「私を買って、私を読んで」と呼びかけてきた件の小説は、三篇からなる短編集で、表題作の「ソロ」は一番最初に収められていた。
70ページ弱の短編で、読み始めてすぐに、リズムの良い文章にするすると絡めとられ、私は、瞬く間にその作品世界に引きずり込まれた。途中で止めることすらできない。一気に読みすすみ、あまりの衝撃に、声をあげそうになった。

なっ、なんじゃこりゃーっ!
こんな小説、書いたらいかんやろーっ!

そう叫びたくなるくらいに、本を持つ手が震えてくる。

なぜなら、この「ソロ」という小説、狂っているのだ。

鼻ピアスの主人公が、見ず知らずの女の運転免許証を拾い、その女を訪ねて殺害し、女の部屋を物色し、バスルームで用を足しているところから物語は始まる。
間違いなく頭のイカれた主人公は、信じられない行動をとるのだが、狂っていると感じたのは、主人公のことではない。

文章が、たまらなく、美しい。

イカれた主人公の狂気につられて、文章までもが昂る……といった感じがまるでない。冷静で、静謐。独特の比喩に、繊細な描写。作品世界は冴え、その冷酷なまでの美しさに、私は、ゾッとした。

この作者が、イカれている。

正直、そう思った。
こんな小説を世にだしていいのか?
そんなことすら思った。
しかし、一方で、言いようのないモヤモヤした感情が、胸の内から湧いてくるのも事実だ。
納得ができない。何に納得ができないのかもわからないが、とにかく、納得ができない。
私はもう一度、「ソロ」を冒頭から読み返した。そして気づいたのである。その作品に、自分が惹かれていることを。

翌日、私は図書館に行き、藤沢先生の作品を借りられるだけ借りて、貪るように読みあさった。どの作品も出口などなく、窒息しそうな世界観に、目眩すらおぼえる。中毒患者のように虚ろになった頭で、私は思ったのである。

そうか。私も、イカれているのか……。


以来、私は藤沢先生の小説に溺れている。本を開き、美しい文章の束を自らの首に巻き付け、白目を剥き、喘ぎながら、恍惚という言葉の意味を噛み締めるのだ。

なあ、藤沢先生、こういうのも、ありだろう?

藤沢周先生の本は、女性言葉で私を呼ぶ。

私は、読書が好きである。
と言っても、一般素人な田舎のおばちゃんなので、哲学書とか、難しそうな本はあまり読まない。主に小説。文学作品も読むし、エンタメ作品やラノベだって、自分が面白いと思えば何でも読むのだが、最近は老眼のせいで、目が疲れやすく、昔に比べると読書の時間が減ってしまった。
そんなわけで、気分転換も兼ねて、スマホ片手に、ちょっと、ポチっとしてみようと思う(パソコンが夕方からヘソを曲げてブリーズしてしまったせいでスマホ……泣き)。


さて。
作家の先生方には、大変申し訳ないのだが、私はよく、BOOKOFFで本を買う。
と言っても、大半が100円(税別)の値札を貼られた見切り品で、未読の話題作(だったもの)とか、読んだことのない有名作家の本などをいつも物色して購入している。
他に買うのは「なんか、気になる」本。
インスピレーション買いと勝手に名付けているのだが、作家の名前も、作品タイトルも知らないのに、なぜか惹かれる本を、私はたまに買ってしまうのである。
窪美澄の「ふがいない僕は空を見る」は、タイトルに惹かれて買った一冊だ。
映画化までされていたことを後日知ったのだが、購入時には、窪美澄の名前も知らなかった(すみません)。
東山彰良の「ラム&コーク」は、装丁が良かった。透ける素材の、フィルムのようなカヴァーが掛けられていて、明るい装画がこれまた魅力的。作品は、馳星周の小説をコメディーにしたら、こんなんできました!みたいな、笑えるヴァイオレンス小説で、スピード感のある文章もかなり良い。
「この作家、すっごい面白いのに、何で売れてないがやろ?」と思っていたら、直木賞を受賞した。
東山先生、おめでとうございます。

そんな感じで、BOOKOFFの100円コーナーは、行けば必ず覗くのだが、一度だけ、単なるインスピレーションとは呼べない感覚を味わったことがある。

それは、藤沢周先生の「ソロ」という小説の文庫本だった。
私はその頃、藤沢先生の名前は知っていたが、作品は読んだことがなかった。そして、その「ソロ」という本に目が止まった時、本が、私を呼んだのである。

「ねえねえ、私を買って!私を読んで!」

と。
しかも、女性言葉で……。

こんなことを書くと、「こいつ、頭がおかしいんじゃねーの?」とか言われそうだが、事実なんだから仕方がない。

結果、私は本に呼ばれるまま「ソロ」を手に取り、レジに向かったのである。


つづく……。